雨に濡れても‥中沢新一 -3ページ目

「東京の農業」を考える(9)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 日本人の主食は雑穀だった


 都市の人間は、確かにお米を食べる機会が多かったと思いますが、地方の人間たちは、お米を食べる機会は、1年のうちでも数回だったと思います。お米は主食ではありませんでした。
 私は山梨県に生まれました。みなさんもご承知のように、山梨県というのは、この近郊でも貧しいところだと言われています。八王子などは、山梨県とだいたい同じような方言と貧しさを持っているところですが、私の子どものころでも、主食はお米ではなくて、「ほうとう」を食べていました。
 これは味噌で煮込んだ野菜のなかに、うどんを煮込んだ食べものです。これをうどんに伸ばさなければ、「すいとん」になります。この食べものは、私の記憶をたどってみても、山梨県の人間はほとんど毎日食べていたのではないかと思います。
 夕飯は、だいたい「ほうとう」という家が多かったですね。夕飯でつくり残しておいたものを、翌朝、作業に出かける前に暖めて食べるというのが、一番おいしいと言われていました。お米を食べるというのは、あまり回数が多くなかったのではないかと記憶しています。
 ですから、子どもたちの学校給食がはじまる以前、お弁当を持っていかなくてはいけないときには、農村部の子どもたちは大変苦労しておりました。麦飯の子どもたちが、自分たちのお弁当を隠しながら食べているというシーンに何度も会いました。町場の子どもたちはお米を持ってきていましたけれども、農村部の子どもたちは、あまりお米の入ったお弁当を持ってきていなかったことを覚えています。イモだったこともあります。
 これは日本の貧しさかというと、実は、これは普通のことだったと思います。つまり、日本人の主食は、基本的にはお米ではなかったということです。雑穀が中心だった。とりわけ関東の農業地でつくり出しているものは雑穀類がほとんどですから、これが食事の中心であったということは、ほぼ間違いないと思います。
 ですから、日本人が昔からご飯を食べていたというのは、ひとつの美しい物語としてつくられています。スローフードなどを唱える人たちは、日本の食事は理想的で、お米をスローフードとして食べると言いますけれども、そうではないと思います。
 お米は、それほどスローフードではないと思います。スローフードということを本当に言うのならば、これは縄文時代に食べていた、あの縄文の土器のなかでつくっていた料理が、スローフードの典型だと思います。
 なぜなら、あれは最近、考古学者がいろいろと復元していますけれども、大変ですよ。野菜を細かく切り刻まないといけないのです。それを土器のなかに入れて、長時間コトコト煮込むわけです。そのなかに岩塩を入れたり、肉を少量入れたりして味付けをして、そこへドングリの粉を擦ったものを水で溶いて、団子にして放り込んでいたようです。
 八ヶ岳から山梨のあたりに考古学の研究所がたくさんありますけれども、このあいだ、そこで縄文食の再現をおこなってみえました。そこへたまたま私も出かけていきましたら、山梨県の近所のお百姓さんたちが来ていて、その縄文食を食べてみて、あれ、これは「ほうとう」と同じじゃんと言っていました。
 つまり、日本人が食べていた雑穀の煮物。鉄の鍋になる以前は、長いこと土器で料理をしていますが、この料理の基本的な方法というのは、非常に手間暇かけ、時間もかけた、スローフードの典型のようなものだったのではないかと思います。
 こういう意味でも、日本の農業を考えるとき、私たちはもっともっと自由な発想をしていいかと思います。
 お米の問題というのがあります。これは確かに、日本人のつくり出す農作物のなかでも非常に重要なもので、稲をつくり出すために開発された技術と知識の体系というのは、大変奥深いものがあります。これをよく見ていきますと、日本の農業というもの、あるいは、農業が潜在的に持っている文化的な意味というのがよくわかってきます。
 しかし、もう一つ忘れてはならないことがあります。これは雑穀の問題です。それから、イモなどの根菜類や蔬菜類。つまり、これは水田とは違う地帯でつくられる農業のかたちであって、むしろ、関東平野の洪積台地でおこなわれる農業にとっては、この問題を考えることはとても大事だということです。
 つまり、縄文時代の農業から連続性を持っているようなものが、ここには残っているということです。ですから、私が東京の農業を考えるときの農業といったら、水田でつくられる稲と、畑でつくられる作物。この二つを大きくまとめた全体像を持たなくてはいけない。それと同時に、この二つは歴史が違うものだということを意識しておいていただきたいと思うのです。
 関東の農業、特に東京台地、関東の洪積台地でおこなわれていた農業の歴史は、非常に古いものです。西日本を中心にして展開してきた水田農業とは、ちょっと違うものが生きている。これを一つの前提にしていってもらいたいと思うのです。

「東京の農業」を考える(8)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 米作りが飢饉をつくった


 しかし、日本の農業の基本的なもう一つのかたちというのは、水田というかたちをとった、稲づくりになったわけです。なぜ日本人がそこまで稲をつくったのか。
 私たちは東北へ行くとびっくりするのです。北海道へ行ってもびっくりします。こんな寒冷地によく稲がつくられていたものだと思うぐらいですが、この関東平野では、関東の台地では、あまり稲づくりに関心を注いでいませんでしたが、東北に行きますと、稲をつくることに、何か強迫神経症的なものがあったようです。
 無理矢理あんな寒冷地で稲をつくっています。ご存じのように、東北には何度も何度も飢饉が訪れましたが、何が原因だったかということを考えてみますと、これは稲づくりが原因だったと言われています。
 東北人は、もともと縄文的な文化をつくっていましたから、稲は基本的な作物ではありませんでした。ここに幕藩体制が形成されてから、稲づくりが強力に推し薦められるようになります。そして、どんな寒冷地であっても、たくさんのお米で石高をあげなくてはいけないという要求がありましたから、無理なところでお米をつくらせたわけです。そのために、何度も何度も飢饉が訪れています。お米が飢饉をつくってしまったというのが、北の日本の非常な悲劇の原因となっていったわけです。
 なぜこんなにお米に執着したかと言いますと、お米が税金だったからです。お米はお金でした。私たちはいま、お金で狂奔しています。株を操作して、お金をいかに操作するかということに非常な関心を注いでいますが、江戸時代、あるいは近代までは何をやっていたかというと、お米なのです。
 お米は貨幣でした。お米というのは非常に不思議な作物だったと思います。狭いところからたくさんの収量がありますし、お米はとても貨幣によく似ているところがあるのです。その証拠というのは、お米はもともと最初に入ってきたときは、大変に神聖な食べものだとされていました。
 ですから、お餅をつくることがおこなわれています。西日本へ行くと、餅米をつくって、お餅をたくさんつくります。そして、このお餅が不思議なもので、神さまに捧げるものですが、なぜこれを神さまに捧げることができたかというと、ついて、自由自在に形を変えられるからです。
 私たちの世界のなかで、自由自在に形を変えていくものはなんですかと言われてみれば、よく考えてみると、これは貨幣だということがおわかりだと思います。貨幣というのは、なんにでも姿を変えていくことができるものです。
 貨幣というのは、それ自体としてはなんの形も持っていません。何か抽象的なものですけれども、この抽象的なものが、どんどん形を変えていくことができるのです。私たちはお金を使ってものを買うことができます。ですから、お金に執着します。
 昔の日本人は何に執着したかというと、お米に執着しました。それはお米が、現在の我々の貨幣と同じはたらきをしているからです。お米はお餅に姿を変えることができるほどに、貨幣とよく似ています。いろいろなものに姿形を変えていくことができる。しかも、お米自体が大変な価値物でしたから、お米は日本人にとっても、大変に重要な貨幣と同じはたらきをしました。
 ですから、先ほどもお話ししましたように、東北の悲劇などというのは、お米を無理矢理つくったことから発生しました。それは、東北の津軽藩とか南部藩のお殿さまたちは、自分たちが辺境にいることを非常に恥じていました。ですから、石高をたくさん得るということに、大変に執着心を持っていました。ですから、お百姓さんたちは、あの寒冷地で米をつくらなければならなかったわけです。
 それも、現代の日本人が陥っているお金に対する執着や、あるいは、盲動とよく似ているところがあると思います。ですから、私たちがお米の問題を考えるときに、私たちは瑞穂の国に生まれているということを考えたとき、何かごく自然なことのように思いますけれども、日本人にとってのお米というのは、近点に至るまで、これは主要な食べものではなかったということを考えておいていただきたいと思います。

「東京の農業」を考える(7)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 日本の農業と畑作稲作


 農業というのはとても不思議な行為です。一般に日本の農業というと、これは稲作が中心だとイメージされることが多いですね。とりわけ、日本の農業を紹介する写真には、棚田の写真が必ず使われて、見事な水力、水利システムで、狭い土地を集約的に水田に切り替える。そして、この集約的な水田から、たくさんの稲を栽培して、米を収穫する。これが日本の農業の基本的なかたちだと言われています。
 しかし、よく考えてみますと、これは関東平野にはあまり当てはまらない農業の形態だということは、みなさんよくお気付きだと思います。関東のこの地帯というのは、地質学的に言うと、洪積層という地層によって成り立っています。つまり、昔から高い台地上の地形をしていました。
 ですから、ここには1万数千年前の古くから、縄文人が住んでいました。この武蔵野の台地、たとえば、多摩センターとか八王子から井の頭公園、あるいは、ここらへんもそうですね。このあたりは、もう海でした。ちょうど海との境目あたりですが、この台地上では縄文人が生活をしていました。
 普通、縄文人は狩猟採集民だと言われていますが、そうではないのです。農業をやっています。この農業というのは、畑作農業と焼き畑の農業をおこなっていました。
 この関東の台地というのは、焼き畑や畑作の農地に非常に適したところでしたから、ここにはある意味で言うと、古くから畑の畑作の農地が開かれていました。
 そして、徳川家康が江戸に都市を開くという事態が発生したとき、この近郊の農村部は、大きく活気づいていくことになります。一つは、玉川上水や神田上水を使って水路が切り拓かれて、これはもちろん江戸の住民に飲料水を供給するための水道だったのですが、しかし、これに駆り出されたのは、近郊の農民でした。
 この農民たちは、途中で分流をつくって、所沢の奥のほうですね。玉川のほうから、源流地から引っ張られてくる水を、自分たちの畑に通すということが可能になってきました。
 そして、そこで何が栽培されたかというと、都市に生活する人々のための蔬菜(そさい)、野菜栽培が中心になってきました。ネギであるとか、さまざまな蔬菜がつくられました。ですから、都市部の人間と農村部の人間というのは、江戸の場合は大変に交流が濃密にできていました。
 普通、ヨーロッパの都市というのは、都市部と周りの農村部のあいだに城壁をつくるのですが、江戸のまちというのは、これをつくっていません。日本の都市は、だいたい城壁をつくらないのです。
 ですから、毎朝、江戸のまちでは早朝になりますと、大八車が甲州街道をガタガタと下高井戸村のほうへ向かって繰り出していきます。これは何を持っていくかというと、大八車に積んであるのは、都市の住民の排泄物です。この肥桶にいっぱい詰めた排泄物を、早朝、都市の外へ運び出します。そうすると、それと入れ替わりのように、農村部のほうからは、ゴトゴトと野菜を積んだ大八車が、都市のなかに入ってくるようになる。
 ですから、そういう意味で言いますと、東京の農業地として、ある都市の蔬菜栽培と、都市のあり方というのは、見事にうまく結合できていました。人間が排泄するものは、必ず農業地に還元されましたし、農業地でできたものは、複雑な流通経路をとらなくても、都市のなかに簡単に運んで来られるような、そういうかたちで農業が進んでいました。
 むしろ、稲づくりは下町のほうでおこなわれていたわけです。足立区・北区の地帯は、水田地帯が広がっていましたが、武蔵野の農業というのは、畑がつくられていた。そして、この畑の農業というのは、水田がつくられてから、日本の農業がだんだん変わっていった、その変わる以前の日本人の農業のかたちを幾分残しています。
 ですから、この地帯では、イモが非常に重要なはたらきを持っています。イモというのは、いろいろなお祭りに登場してきますけれども、イモやネギが大きな意味を持っていたわけです。

「東京の農業」を考える(6)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


2 人間と農業のかかわり


 この問題を考えていくと、たぶん、本来のこの集まりのテーマである、遺伝子組換えの問題というのが、より広い視野で照らし出されるのではないかと思います。
 遺伝子組換えの問題というのは、科学技術の問題と深くかかわっています。科学技術が植物を対象にして、その遺伝子を操作できるようになる技術を開発しています。そして、これを農業の領域に適用しようとしている。これに抵抗する人々もいる。
 あるいは、農業を産業としてとらえた場合、この遺伝子組換えというのは、いまの状態では、はたして産業としてこれが可能なのか、有効なのか、それともそんなものは本当の幻想なのか、まだよくわからない状況にいますけれども、とりあえず、これを産業のためによいとして、アメリカ人と同じように、そちらの方向へ進もうとしている人たちもいます。
 しかし、農業のなかには、何か科学がおこなおうとしている行為とは違う原理が含まれているようです。それがいったい何なのかということを、見極めてみたいなと考えているわけです。

「東京の農業」を考える(5)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 農業とは何なのかを考えること


 こういう体験を通してみますと、農業というのが、いまの日本の社会をつくっている基本的な原理に合わない原理をはらんでいることがよくわかります。しかし、合わないけれども、そこに何か非常に重要な意味が含まれているということもわかる。
 私たちは人間についての学問をずっとやっていますけれども、この問題を考えるときにも、私たちはいまの社会のなかで見えなくさせられているもの、あるいは、表面に出てこれなくさせられているもの、それが表に立って自己主張をしはじめると、何かそんなものは格好悪いだとか、時代遅れだと言って、あざ笑ったりすることによって、相手に恥ずかしい思いをさせる。恥ずかしい思いをした人たちは、こそこそ引っ込んでいきますから、そうすることによって、自分たちがやっている行為、つまり、極端なかたちで言うと、ありとあらゆるものを金で決定していく原理ですが、この原理のなかに、日本人の生活すべてを巻き込んでいくような動きが進行してしまっている。こういう動きはよくないと思います。
 そして、社会全体を動かしている方向とは違うものを考えたり、違う生き方をしたり、違うものをつくろうとしている人たちをあざ笑ったり、あるいは、時代遅れであると言ったり、田舎者であると言ったりして、恥ずかしい思いをさせようとする社会は、非常に不正義であると思います。これには、私は大変ずっと憤りを持ち続けています。
 そして、こういう現代のような、むしろ、お金という原理ですべてを動かしていくものが、極限状態まできてしまっています。
 いまのニッポン放送とフジテレビの売却問題などを見ていますと、これはお金の原理、お金というものですべてをつくり替える。そして、言いなりにしていくという原理が、極限まできてしまっているというのが、日本人にはよく見えるようになっています。
 しかし、この原理はどんどんと進行しています。世界的にこの動きが拡大しているからです。この動きに抵抗していく。あるいは、違うものによって立って、それに自信を持って、自分たちの人生を切り開いていく道を考えるにはどうしたらいいだろうか。こういう問題を考えると、私はどうしても農業の問題に行き着かざるを得ないと思うのです。
 今日は、この農業の問題。農業というのは、現代の人間がやっていることのなかで、いったいどういう意味があるのだろうかということを考えて、お話ししてみたいと思います。