雨に濡れても‥中沢新一 -2ページ目

「東京の農業」を考える(14)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 琵琶湖のナマズと農民


 日本にはいろいろなところに里山がありますけれども、もっとも一番美しい里山の景色はどこですかというと、私もいろいろなところを見てきましたけれども、琵琶湖のほとりの西坂本というところです。琵琶湖の湖西線の電車で行きますと、雄琴というところがありますけれども、雄琴から山の奥へ入っていったあたりの里山というのは、おそらく日本でも、もっとも美しくつくられている水田地帯だと思います。
 毎年、なぜか知らないけれども、大晦日から新年にかけて、NHKは、今森光彦さんというカメラマンが撮った、この里山の光景を流し続けています。これが日本人の原風景の一つだと考えられています。
 それはたぶんこういうことだと思います。ここは琵琶湖がほとりにありますから、水が大変豊かにあります。後ろは比叡山ですから、山土になっています。この比叡山と琵琶湖の中間地帯のなだらかな傾斜地帯に、里山がつくられているわけです。
 ここが非常に美しいのです。棚田が縦横無尽につくられています。この地帯は、ある意味で言うと、日本の水田がつくりあげる自然環境のひとつの典型にもなっていますが、ここでいろいろとおもしろい話を、私自身行って聞きました。
 なかでもおもしろいなと思ったのは、ナマズと農民の関係でした。琵琶湖というのは、ナマズがいっぱいいるところなのです。琵琶湖大ナマズというのは、もう1メートルぐらいあるナマズですし、ありとあらゆる種類とまではいきませんけれども、日本にいるナマズの重要な部分というのが、琵琶湖に棲息しています。
 ですから、秋篠宮殿下などは、しょっちゅう琵琶湖へ出かけているようですけれども、あそこのナマズはばかにできないのです。ナマズ研究というのは、なかなかばかにできない奥深さがあるのです。
 私も秋篠宮殿下の研究を最初はばかにしていたのですけれども、彼の発表を聞いたりして、この人はひょっとしたら、ナマズに関してはちゃんとした人なのではないかと、ちょっと尊敬するぐらいのことも感じたのです。
 このナマズたちは、非常な知恵者だったのです。ナマズはいつも湖底の深いところで暮らしています。しかし、産卵期は、水の浅い暖かいところへ上ってこないといけないのです。
 かつては、ナマズの産卵は水辺でおこなわれていました。ところが、ここに人間が水田を開くようになりました。ナマズは、この水田を見ていて考えたのでしょうね。この水田は非常によろしい。自分たちの産卵環境にとって大変すばらしい。なぜならば、水が狭い範囲のなかで水平に保たれていて、水位の変化があまりないし、温度が高い。しかも、水が枯れないように、いつも灌漑がおこなわれている。しかも、安全らしいということに気付いたわけです。
 それに気付いたナマズたちが、あるときから、湖水から大量にこの水田に向かって上ってくるということをはじめたのです。
 昔の水取り口は田圃の脇につくってありますが、ここを越えて、上へ上へと入っていったわけです。ですから、ずいぶん比叡山に近いところまでナマズたちは上がっていって、この水田のなかで愛の行為をして、産卵をする。そして、小さなナマズたちが水路を逆にたどって湖に戻っていくということをはじめたのです。
 これは、あそこで稲作がはじまって千数百年でしょうね。千数百年間、ナマズたちはあるとき気が付いたのでしょう。それでこれをはじめたのです。
 ところが、最近困ったことが起こったわけです。それは、水をくみ出すために、琵琶湖から田圃に水を取り込むということを農民たちがはじめた。そのために、琵琶湖と水田を結び、そして各水田を結んでいた水取り口というのがなくなってきて、ここをポンプで水を汲み上げるシステムが発達するようになってしまったわけです。
 そうすると、ナマズは数年間困ってしまったみたいです。上の田圃に行けなくなってしまった。そこでどういうことを考えたかというと、あるとき大変に勇敢なナマズがいて、ポンプで吸い上げる水のくみ取り口へ飛び込むということをおこなったのです。
 そうすると、ここへ飛び込んで、ポンプで吸い上げられて、上の田圃へピュウンと放り投げられていくようになったわけです。このやり方を続けて、5回ほど水取り口のなかへ吸い込まれて、空中へ飛び上がるということをやっていくと、上の田圃まで行けるということがわかってきたのです。これがわかってきて、ここ数年というものは、季節になりますと、水取り口の水の出口から、ナマズがぴょんぴょん上に飛び上がって、また昔と同じような産卵をはじめているわけです。
 この事態を見てみますと、琵琶湖周辺の農民たちは、ナマズの要求を受け入れています。彼らが産卵するために田圃を利用する。この田圃の利用は、ある点ではとても困るところもあるのです。なぜならば、田植えをしたあとの田圃で、あまりに激しい愛のダンスをすると、苗がひっくり返されてしまうという問題点があるのですが、それを大目に見ているところがあるのです。
 そして、大目に見ておいて、大きくなったナマズは何匹かいただこうということです。ナマズのほうも自分の産卵のために田圃に入ったお返しとして、何匹かは農民たちにナマズをお返しして返すということをおこなうようになっています。
 ですから、こういうことを見ていますと、里山がいったい何をやってきたかということを考える、大変にいい参考になると思います。これは動植物が抱いている権利主張。人間と対等とまではいかないまでも、相手の権利の主張を考慮に入れながら、里山の秩序をつくるということをおこなっていました。

「東京の農業」を考える(13)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 里山という秩序


 さて、この農民がつくりあげた一種の第二の自然、里山と呼ばれているものがあります。これは手つかずの自然ではありませんし、平地部につくられる都市とも違う秩序になってきます。これはいま、とても重要な概念、考え方になろうとしています。
 いままでは、自然保護というのは、自然を手つかずのまま残さなければいけないという考え方が、いろいろなところで声高に叫ばれてきましたが、この考え方がはたして正しいのだろうかということが、再検討に付されようとしています。
 たとえば、アマゾンの森林があります。あれは、いままで人間が手つかずのまま放置していたジャングルで、それを守ることが重要なのだ。これを開発することの悪が声高に言われていましたけれども、最近の研究によると、あのアマゾンのジャングルでさえ、実は、そこに住んでいたインディアンたちが下草を刈り、そして道をつくり、そこに生育する植物をコントロールしていたという意味で、アマゾンのジャングルでさえ、一種の里山ではなかったかという考え方を持つ人たちも出はじめているぐらいです。ですから、この里山という概念は非常に重要です。
 さて、この里山ではどういうことが起こっているかと言うと、そこには生物が、かつてないほどの多様性を持って比較的狭い地帯に集まって、ここに新しい環境を作っていく。そのとき人間がどういう反応をしたか。都市の生活の原理から言いますと、これはさまざまな動物が自分の生活圏の近くまで寄ってきますが、この動物たちを追い払うのでしょうね。
 そしてこの動物たちが、自分たちの生存のためにいろいろな要求をします。稲刈りをしても、全部の稲穂を集めないでくださいと鳥たちは要求しているでしょう。この要求を、農民たちは受け入れるということをしてきています。
 これは昔の農民の考え方について記録した、民俗学の記録を見るとよくわかります。稲刈りのあとに必ず動物たちの分を残して、日本の農民はおこなってきたようです。これは動物の要求をある程度受け入れることをおこなっているわけです。
 ところが、都市生活のなかでは、動物の要求を受け入れることが非常に難しくなっています。どうしていいかわからないのです。私たちはカラスの要求を受け入れるのがなかなか難しくなっています。カラスは、ゴミ袋の蓋を閉めるなと要求しています。野良猫たちも、なかを食べやすいように蓋をするなと要求しているでしょうけれども、この要求を、都市生活者はなかなか受け入れることはできません。
 なぜかと言うと、カラスの食べ方は、なかなか粗っぽい食べ方をするからです。これが里山だと、カラスが食い散らかした粗っぽい食べかすを、別の動物が食べていましたから、これは全体として見ると、カラスの行動の粗っぽさというのは、それほど重大な問題を引き起こさないのですが、都市では重大な問題をつくり出してきますから、カラスの要求に応えることは難しくなってきています。
 ほかの動物たちの要求に応えることも難しいし、植物や自然の要求に応えることも難しくなっています。せいぜい要求に応えることができるのは、自分の部屋のペットぐらいなものでしょう。おしっこがしたいと言ったら、おしっこへ連れて行ってやったり、ご飯が食べたいと言ったら、ご飯をあげたりする。これぐらいの要求には応えることができます。ところが、里山では、動物側からの要求に、ある程度の応答が常におこなわれていたわけです。
 植物や動物たちが自分の生存を守るために、それぞれの要求をおこないます。人間も要求をおこないます。そして、お互いの要求を出しあったところで、ネゴシエーションがおこなわれて、お互いの要求をある程度認めたところに、一種の緩衝地帯と言いますか、第三のクッション地帯がつくられます。
 里山の秩序のなかで一番重要なのは、この中間地点。人間のものであると同時に、動物のものであり、植物の生態に合致していると同時に、動物の生態に合致している。ですから、言い方を変えてみますと、人間や、動物や、植物の要求が入れ子になって、お互いが自己主張をしながら、そして、そこでネゴシエーションをして、まあここだけは受け入れるけれども、ほかのところは諦めなさいというかたちで交渉がおこなわれています。
 この第三の中間地点の交渉地帯。中間ゾーンですね。一種の灰色ゾーンみたいなものです。この灰色ゾーンというのが、里山をつくりあげている、非常に基本的な原理でした。
 農業生活者は自分の自宅があります。この自宅は都市と同じですから、人間の要求で基本的にはつくろうとしますが、なかなかそうもいきません。ネズミの要求があります。小動物たちがここにはたくさんやってきますが、この動物たちともある程度折り合いをつけて生きていたと思います。
 しかし、一歩、畑のほうへ出ていくと、そこは人間の思惑や要求だけでは、いかんともし難いような自然の世界が広がっています。そして農民は、この自然の側の力というものをある程度受け入れることによって、里山的な秩序をつくっていたのだと思います。
 農業が持っているもっとも偉大なところは、この部分にあると思います。つまり、自分の回りに集まっていて、同じこの世界をつくっている生物種、動物や植物が持っている要求を、ある程度受け入れつつ、お互いが共生できる空間をつくるということです。そして、この動物たちが現れてきたとき、植物が自分の目の前にあるとき、その相手のかたちを壊してしまわないということです。
 都市の生活の場合は、先ほども言いましたように、技術という原理が中心になっていますから、まず抽象的な形に壊してしまうのです。ですから、都市の生活というのは、非常にわがままだとも言えます。人間中心主義、人間勝手につくられているとも言えます。
 生物が自分の要求をするためには、自分の体を持っていなくてはいけません。自分の体を持っていて自己主張をする。それを受け入れようとするから、お互いのあいだに交渉をしたり、ネゴシエーションをしたりしなくてはいけませんが、都市の空間というのは、そういうものが入ってこないようになっています。
 ですから、この都市空間のなかにあるものは、原理から言うと、自由にコントロールできる素材でつくられるということなのです。コンクリートがそうです。このコンクリート素材というのは、木材以上に自由に形を変えることができます。鉄の素材もそうです。それによって都市空間をつくることができますが、これは非農業の原理でつくられているからだということになります。
 この都市のなかでは、自然の生物とのネゴシエーション、お互いのあいだの交渉によって秩序をつくっていくことが、中心的な原理にはなっていないということです。
 ところが、農業という生業のなかでは、お互いのあいだで違うもの、要求を持ったもの同士が出会ったときに、お互いの意見を聞き合いながら、そして、それでもなおかつ人間の役に立つように、自然をある程度つくり変えていくことがおこなわれていた。これが日本の農業的な自然秩序をつくっていた、あの里山というものの原理なのだと思います。

「東京の農業」を考える(12)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 農業はどういう技術であったか


 これに対して、農業はどういう技術であったかということを考えてみる必要があると思います。農業は、自然にあるものの形を破壊して、そしてそのなかから何か抽象的なものを取り出してくるという作業はしない仕事なのです。
 植物を扱います。稲作のことを考えてみてもわかりますが、植物を破壊するということは、水や土を使って稲を育てる過程では、一切おこなっていません。もっと考えてみますと、日本に水田が形成されてきたころのことをちょっと想像してみましょう。
 それまで日本の大地というのは、大変起伏に富んだ地形をしていました。それが地ならしされるようになってきたわけです。水田をつくるためには、水平な土地がないといけませんから、起伏のある土地を平らにならします。あるいは、急斜面ですと、ここに棚田をつくるということをおこないます。
 いずれにしても、いまの宅地造成と同じようなことをしたわけです。ですから、まず、農業をやるためには森が壊されました。森を切り払って、そこに平地をつくることをしたわけです。
 いまの不動産業者が、あんなにきれいだった丘をブルドーザーでかいて、真っ平らにして住宅をつくろうとしています。あの造成の仕方を、建築家たちは「棚田造成」と呼んでいますが、これはよく表していると思います。棚田をつくるのと同じ原理で、宅地造成をおこなうようにしています。
 日本の宅地というのは、ヨーロッパの宅地造成と違って、必ず棚田と同じ造成の方法を取るやり方をしています。ですから、水田耕作と同じやり方を、不動産業者も踏襲しているわけです。
 そうしますと、まず森が壊されて、起伏がならされました。そこへ水田が開かれるわけです。ところが、水田ができあがってみますと、森が切り開かれるときには動物たちはブーブー文句を言っていたはずです。どうして自分たちがいままでいたところを破壊するんだと怒っていたはずです。周辺部の森へ退却して、動物たちは何が起こるか見ていたでしょうね。人間たちがとんでもないことをすると、確かに怒っていたと思いますが、そのうちに、ここに水たまりができて、そこに植物が生い茂るようになったのを見計らって、小さい体の動物たちが、この水田地帯へまた戻ってくるという事態が起こったわけです。
 こうして水田が形成されることによって、かつての森の時代にはなかったような環境が新しくつくられています。確かに、それは森を破壊しましたし、棚田造成によって水平地をつくって、ここに水を流し込むことをおこないましたが、この水を流し込まれた田圃のなかに、新しい生物種が戻ってくるということが起こりました。そしてそれを中心にして、水田の周りに、かつてないような新しい秩序がつくられてくるようになった。これがいまふうの言い方をすると、里山と呼ばれているものです。
 里山の秩序というのは、このようにつくられてきています。一旦は破壊されているわけですけれども、この破壊のあとに、新しいかたちの自然秩序がつくられてきて、そこに生物種が戻ってきている。この生物種が戻ってきて、ここに新しい循環をつくり、前よりも、ある部分では多様性に富んだ豊かな自然がつくられるようになりました。森林や平地よりも、もっとも生物の多様性に富んでいるのは里山だと言われています。里山は多種多様な生物がいます。ここを農民がつくったわけです。

「東京の農業」を考える(11)

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        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 技術というものの本質


 これはどのようにして考えたらいいかというと、非農業民の典型というのは、職人みたいなものですから、この人たちがどういう仕事をするかと考えてみますと、基本的に、材料・素材を集めてきて、たとえば、刀鍛冶を考えてみますと、火で原料を溶かして、形のないものにします。これを職人芸でトントンとうまく細工して、別の形に変形させるわけです。基本的にはこういうことが職人技の中心です。
 いまお話ししたのは、職人技の中心の鍛冶とか、たたらとか、刀鍛冶とか、そういう金属を扱う人たちの話ですが、いまの話でも少し出てきましたけれども、まず、これは原材料にものすごく加熱して、もと持っていた原材料の形を崩してしまうのです。そして、崩して均質なものにして、金属を取り出すわけです。そして、この均質材に細工を加えて、新しい金属の道具をつくっています。
 木材の職人たちを考えてみますと、木を切り出します。そして、この木材を鉋や手斧を使って変形して、もとの木が持っていた形を壊します。そして、板に変形させたりして、そこから箪笥をつくったり、こういう桶をつくったりします。
 つまり、職人、非農業民がおこなう技というものは、もともと自然のなかに素材がありますが、この形を一旦壊してしまうのです。壊して、抽象的なものをそこから取り出してきて、そしてこれに細工を加えるというのが、非農業の技術と呼ばれているものです。
 これが、実は、技術というものの一つの本質をつくっています。そして、19世紀から20世紀には、科学と技術が結びついて、科学技術というかたちで大変な発達を遂げてくる、ある知性のかたちがあります。この特徴は何かというと、同じことをやるのです。
 つまり、自然のなかに入っていって、その大もとの自然が持っているかたちを壊してしまって、なかから何か抽象的な原理や、抽象的な組織を持ったものを取り出してきて、それを変形したり、細工をしたりして、新しいものをつくり出すということをしています。これが実は、技術というものの本質をかたちづくっています。
 先ほど貨幣の話をしましたが、貨幣というのは形を持たないものです。とても抽象的なものです。この抽象的なものは、勝手にコンピューターのなかで操作もできるし、株の売買で操作することもできます。
 目に見えない抽象的なものを操作することに、いま日本人は狂奔していますが、ここで起こっていることと、技術のなかにあった原理というのは、非常に近いものだということをお気付きだろうと思います。
 技術というのは、自然が持っているものを、一旦形を壊してしまいます。そして、壊してしまったもののなかから、何か抽象的なものを取り出して、これに新しい細工をする。これが技術と呼ばれているものの本質をつくっています。
 ですから、核技術がありますね。原子核を破壊して、そのなかからエネルギーを取り出すという技術がありますが、これなどは、技術というものが持っている原理を、一番端的に表現したものです。つまり、物質を全部凝縮しているものを壊して、そして、そのなかからエネルギーという抽象的なものを取り出すことをしているわけです。


「東京の農業」を考える(10)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 農業と非農業のちがい


 さて、こういう複雑さを抱えながらも、農業を考えてみたときに、この農業が、ほかの人間がやる生業、商業や、あるいは、職人がやる技術とどこが違っているかということなのです。
 歴史学のほうでは、農業民と、非農業民という二つの概念で分けようという考え方が出ています。農業民というのは、日本人口の大多数をつくった農民たちの文化。これを農業民の文化と呼んでいます。
 ところが、日本の文化をつくっているもう一つの重要な柱というのは、職人の世界なのです。確かに、職人というのは、後々の工業にもつながっていくものです。それから、農業に従事しない人々、山の民とか川の民と呼ばれました。川の水運業であるとか、山仕事をする人々、それから、山のなかで金を掘ったり、金鉱を掘ったりする人、これも非農業に含まれるのです。
 この二つ、農業と非農業の二つだけで見ていったとき、日本の歴史や日本人の文化というのが、いろいろなことでよく見えてくるというのが、いまの歴史学者の主流の考え方になっています。
 この考え方を借りてみますと、非農業、これは先ほど言いましたように、職人であるとか、運輸、川の民、山の民、それから鉱山、こういうものに従事していた人。それから、こういう人々のなかから出現した商人。この人々が非農業民と呼ばれていた人。ひとことで、職人と呼んでいい人たちかと思います。
 これに対して、農業民というものがあるわけです。農業民は、ある時期は、日本の人口の大多数を占めていて、むしろ、都市部に住む非農業民を圧倒していた時期もありました。この人口比は、いまは完全に逆転しています。農業に携わる人々と、非農業に携わる人々の人口比は、いまは完全に逆転して、農業に携わっている人々は、むしろ少数になりはじめた。
 しかし、かつての日本は、これが逆でした。そのときに、農業民がやっていたことと、農業に携わらない人、非農業に携わっている人々の違いがいったいどこにあるのかということを、よく考えてみる必要があります。