雨に濡れても‥中沢新一 -4ページ目
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「東京の農業」を考える(4)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 私の父親の農業


 私は、農業の問題というのは、わりあい小さな子どものときから深く考えさせられていました。というのは、私の父親はもともと技術者だったのですが、宮沢賢治の影響も非常に大きかったと思いますけれども、30歳ぐらいのときに一念発起して、田舎へ帰って、自分で百姓をはじめた人なのです。
 もともと技術者だった人ですから、なかなか最初のうちはうまくいかなかったようですが、周りにいるお百姓さんたち、私は子どものときに見ていて、非常に優れた人たちが多かったなと思いますけれども、この人たちがよく父親を助けてくれて、彼がやりたいと思っていたことを、いろいろと手助けしてくれていました。
 ですから、子どものときから、周りに非常に賢い日本人の代表のようなお百姓さんたちがたくさんいた。そして、父親もそういう人たちから学びながら、農業をやろうとしていた。
 しかし、父親は家のなかでは孤独でしたから、労働などを手伝うのは私ぐらいしかいなかったと思います。そういう手伝いもしていたので、多少、どういうことなのかということはわかりました。
 この父親が、「踊る農業」ではありませんけれども、農業というのは全体的な行為でなければいけないという考え方を持っていた人でした。
 ですから、1年のはじめの農業のはじまりは、1月3日からはじまったのです。これは田づくりという、昔の農民たちがおこなっていた行為ですけれども、雪の積もった畑へ出かけていって、雪のなかへ田圃と同じ格好の小さなミニチュアをつくって、そこへ松の葉っぱを取ってきて、松の葉を稲代わりに植えていくことからはじめていました。
 彼の悩みも、晩年になるとことに激しくなってきましたけれども、農作物が換金作物になってきて、換金作物をつくるための農業に、自分のおこなっている行為を注いでいくと、もともと何をやろうとしていたのかが見えなくなってきた。そして、農業自体が、一つの田を工場として、商品をつくるような行為になっていく。それはとても悲しいことであるし、つらいことであるということを、だんだん大きな矛盾として感じるようになっていました。
 しかし、そういうものをなんとか乗り越えようとする象徴的な意味で、昔の農民がやっていたように、自分がやっている農業という行為を、もっと、自然や、神さまや、宇宙の流れのなかに位置付けようとする。一種の象徴的な行為なのでしょうけれども、そういうことを一所懸命やる。
 周りのお百姓さんたちも、最初のうちは笑っていましたけれども、そのうち、なかには昔と同じだとおもしろがってやる人たちも出てきました。そのようなこともよく覚えています。

「東京の農業」を考える(3)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 宗教学のゼミがなぜ稲づくりを


 学生のなかには、まだ山形へ行ってやっている連中もいますし、その意味では、もう十数年間、私の宗教学のゼミは、なぜか稲づくりをやっているわけです。教授会では、よく皮肉を言われたりしますけれども、それはとても大事な行為だろうと思っていました。
 一つの理由は、私が学生のころ、中国で文化大革命が起こりました。この文化大革命というのは、いまになってみると、1,000万人も人を死に追いやったひどい行為だと言われていますけれども、しかし、当時の感覚から言うと、ちょっとそうでもないところがあったのです。
 これは都会の学生を、下放(かほう)というかたちで農村部に送り込むということを組織的にやっていました。これはもちろん政治的な意味があったのでしょうが、一つの面は、もう少し純粋な思想的な問題もあったと思うのです。
 この運動を指導していた毛沢東という人は、人間の思想の全体性というのは、都市生活だけでは不充分である。実際に、土や森と結びついた生活のなかで得られる知識というものを人間は体得しないと、全体的な知識、円満な知識は得られないという考え方を持っていたようです。
 ですから、若者たちを農村に送り込んで、農業労働をさせることのなかから、工業化やエリート的な人間を集める。北京や上海という大都会へ集まって、そこで生活している若者たちのなかには、ものの考え方が非常に歪んでしまっている。これを正すためにはどうしたらいいかということで、農村へ送り込むということをやっていたわけです。
 これは大変大規模におこなわれていて、私たちもこれを学生のときに見ていて、大変に興味深い試みだなと思っていました。
 ですが、文化大革命自体は、あまりよい成果をもたらすことなく終わって、学生たちの農村部への下放ということも、あまり現代では高く評価されなくなっていますが、実際はそうではないのです。大変よい成果をつくっていると思います。
 なぜなら、いま中国の映画は非常に進んでいます。優れた映画監督をたくさん輩出していますが、この映画監督のほとんどすべてが、下放を体験している人たちなのです。映画を通して人間をとらえるときに、上海や北京のような都会に住んでいたのでは到底身に付かないある種の世界観を、この人たちは身に付けた。
 それは、非常に中国の辺境部へ飛ばされるのです。タイやチベットの国境地帯とか、とりわけ中国でも遅れている地帯へ飛ばされたわけですけれども、そこで獲得した人間観というものが、いまの映画芸術などをつくる場合に、大変豊かなものをつくり出しています。
 ですから、人間的にはとても豊かになったのだろうと思います。ただ、この世代は英語の勉強をさせられませんでしたから、いま中国は大変なエリート社会になっていますが、その社会では脱落者になっています。負け犬ですね。まったく私たち世代ですが、完全に敗北世代で、負け犬世代です。
 しかし、エリート社会の道からはずれてしまったのですが、芸術の領域を担っているのはこの人たちです。ですから、豊かな人間であるということと、エリートの競争社会ということは両立し得ませんから、そういうことが実際に起こったのだろうと思います。
 しかし、農業とは何かを考えてみるときには、20年ぐらい前に中国人が考えた問題というのは、いまだに大きな問題をはらんでいると思います。
 農業とは何か。そして、農業と対立しているもの、たとえば、工業とか商業、こういうものとの違いはいったいなんなのか。そして、現代の社会は確かにお金が中心になって動いていて、お金がすべてだという考え方が大手を振ってまかり通っていますが、お金は本当にすべてだろうか。
 しかし、お金でない価値があるとしたら、それは生活のかたちとして、産業のかたちとして、どういうかたちをとるだろうかという問題を考えるときに、農業を考えることは非常に重要なことになる気がします。

「東京の農業」を考える(2)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 「踊る農業」との出会い


 どのようにして農業とかかわるようになったのかと言いますと、最初のきっかけは十数年前ですけれども、ある日私の前に、山形県の新庄村役場の名刺を持った、「モリ」さんという方が突然現れたのです。
 この方が何を言い出すのかと思いましたら、私は「踊る農業」をやっておりますと言うわけです。踊る農業というのは、大変に詩的・芸術的な言い方ですし、すばらしい言い方ですねと言いますと、農業というのは、もともとは神さまのおこなう行為に近いものであったわけですから、踊りや音楽という芸術などの領域に非常に近いものであった。宮沢賢治などの作品を見てみても、農業と芸術を結びつけるのは非常に重要なことで、農業と芸術は結びつくものなのだと。ところが、いまの農業というのは、どんどんと機械化の方向へ進んでしまって、生活の全体を巻き込んで人間を豊かにしていく生業と言いますか、行動になり得ていないのではないかと言うわけです。
 かつては、宗教の儀式とか、踊りとか、歌とか、芸術とか、そういうものを巻き込みながら、農民全体の生活のなかで農業という行為がおこなわれていたけれども、現代の世界のなかで、技術や工業化が振興していくなかでの農業というのは、この側面がどんどんと壊れされていって、農業労働自体が喜びではなくなっている。そのように自分は感じるのだと。
 この農業労働というものを、もともと持っていた豊かなかたちに戻したい、そういう望みを持った仲間たちが何人もいる。ですから、それを「踊る農業」という名前をつけて、みんなでこの問題をいっしょに探求しているのだけれども、ここへ来て話をしてくれないかということが、十数年前の最初のきっかけでした。
 新庄村へ出かけてみますと、新庄のあたりは山のなかで、かなり寒冷地農業に近い場所だったのです。じいちゃん、ばあちゃんが主体で、ただ、おもしろいのは、その村へ行きますと、じいちゃん、ばあちゃんだけではなくて、フィリピン人の嫁さんがたくさんいたということです。
 フィリピン人の嫁さんと、村に居ついた若者と、老人が農業をやっていたのですけれども、そこで最初の講演をやらされたのです。これは非常に珍妙な講演でした。
 「モリ」さんはなかなかしゃれた人ですから、大蔵村の公民館の入り口へ入ってみると、「ポストモダンと現代農業」という題目の看板がかかっているのです。おじいちゃん、おばあちゃんは、そんなことは全然わからないわけです。
 会場のなかで、私の本の回し読みなどをしているのですけれども、なかには、逆さにしたまま、「えらいもんだな」などと見ている人もいて、そこで農業の話をしなければいけなかったというのが最初でした。
 そして、そこで農業の話をするよりも、まず、こういう寒冷地農業の場所へ学生を連れてきて、そこで稲づくりを最初からやってみたらどうかということが、そのときに結論として出ました。では、村の人にも協力してもらって、ぜひここで学生たちを働かせてくださいというのが、最初のきっかけでした。これは「踊る農業」がどういうものになるのかという意味では、非常におもしろい試みだったと思います。
 なるべく農業という行為を、もともと日本の社会で持っていた、ただ、米という農産物や商品をつくるという行為だけではなくて、それをつくるという行為が、土や、周りの環境や、あるいは、ああいう山形県の山のなかですから、神さまがたくさんいますので、そういう神さまとどうやってかかわっていくかということで、ひとつの農業という行為を、大きく拡大してみましょうという試みだったわけです。
 ですから、昔のように、まず代掻きをする前に、神主の格好をした村の若者が田のなかで踊りをはじめたり、こういうことからはじめるという、ばかばかしいと言われればそうなのですけれども、この山形の人たちにとっては、かなり真剣な問題の一角に触れることを、ずっと続けてきたわけです。
 ここには、近くの余目(あまるめ)という村の青年団もたくさんやってきました。この人たちは、鴨を使った稲づくりを非常に盛んにやっている方たちです。
 米づくりということは、いま日本の社会のなかで抱えている一番の矛盾を全身で感じながら、しかし、自分たちがやっている農業というものに、人間がやる行為として、何か新しい可能性や意味があるのではないかということを真剣に考えている連中でした。なかには、東京で何年か暮らして、その挙げ句に、もう一回田舎に帰って農業を選んだという若者も多かったので、こういう問題について、かなり真剣に考えていました。
 農業というのは、いったい人間のやる行為のなかで、どういう意味を持っているのか。どういう広がりのなかであるべき行為なのか。しかし、それが現代の社会のなかで、矮小化されたり、ねじ曲げられたりしていて、農業の労働そのものが喜びではなくなってしまっている。それはなぜか。なぜかという理由が少しでもわかったら、そこから抜け出していく道をどこへ探したらいいか。こういうことを一所懸命考えている連中でした。
 この人たちとの付き合いは、いまもずっと続いているのですけれども、何しろ山形県の奥ですから、たくさんの学生が増えはじめると、連れてくるのが大変になりました。そこで、八王子の近郊で農業ができる場所はないかなと思って、ある日、学生を連れてドライブして車を走らせていたところが、恩方町の一角で、大変に美しい水田が広がっている。そこの持ち主の方に話をして、ここで働かせてもらえないかと言いました。
 最初はびっくりされていました。何か下心があるのではないかと思って、いろいろと質問もされましたけれども、しかし、べつに下心もなく、ただ、基本的には、そこの農業全体を手伝わせてもらう。その手伝わせてもらうなかで、学生たちが自分たちにとって、何か非常に重要なものを身に付けてくれたらよいということだと言いましたら、よく納得してくださいました。それ以来、八王子でずっと続けています。

「東京の農業」を考える(1)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


1 私と農業との縁


 中沢です。こういうMANDALAというのは慣れませんね。曼荼羅というのは、真ん中に大日如来がいますけれども、後にも横にもいたりして、どこへ焦点を合わせていいかわからないという、きっとこんな感じなのでしょうね。焦点を合わせないための、こういう会なのかもしれません。
 遺伝子組換え問題というのは、焦点が非常にシャープな問題ですから、それを、遺伝子組換え賛成・反対ということで、シャープに議論をする場も必要だと思うのですけれども、それをもう少し広い視点に持ち上げて、そこで遺伝子問題や、あるいは、もっと大きいものは現代の農業だと思いますけれども、とりわけ東京でおこなわれている農業について、四方八方に問題を広げるという意味で、MANDALAという言い方を使っているのだと思います。
 私は最初の話のきっかけを与えるようにと頼まれました。もちろん、私は遺伝子組換えの専門家でもありませんし、学生のときに生物学は勉強しましたけれども、生物の基本を専門に研究しているわけでもありません。宗教学とか人類学の研究を長く続けています。
 そういう人間が、どうしてこの場に呼び出されているのかと言いますと、いろいろな因縁があります。いま私は、八王子の中央大学というところで教えていますけれども、そこのゼミでは、八王子の奥に恩方町がありますが、昔、きだみのるという人が、『気違い部落周游紀行』という、大変なベストセラーを書いたところです。
 「気違い部落」などとは、いまは絶対に使ってはいけない言葉で、この本も岩波新書から出ていたのですけれども、岩波書店から出せなくなった本ですが、日本の社会の一番基本的な問題点というか、魅力を描き出した本です。このモデルになった村というのが、八王子恩方村というところでした。
 これは東京の近郊で、八王子からバスで30分もかからないところにあるのです。ところが、ここは本当に東京だろうかと思うような田園地帯になっています。そこに、かつては水田がたくさんつくられていましたが、いまは数軒しか稲作をおこなっていません。
 そのわずか数軒のうちの一軒の方から田圃を借りまして、ここで学生といっしょに稲作をずっと続けています。もう数年やっていますが、それ以前は山形県の新庄の山のなかで、寒冷地農業に取り組むということもやっていました。

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