「東京の農業」を考える(8) | 雨に濡れても‥中沢新一

「東京の農業」を考える(8)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 米作りが飢饉をつくった


 しかし、日本の農業の基本的なもう一つのかたちというのは、水田というかたちをとった、稲づくりになったわけです。なぜ日本人がそこまで稲をつくったのか。
 私たちは東北へ行くとびっくりするのです。北海道へ行ってもびっくりします。こんな寒冷地によく稲がつくられていたものだと思うぐらいですが、この関東平野では、関東の台地では、あまり稲づくりに関心を注いでいませんでしたが、東北に行きますと、稲をつくることに、何か強迫神経症的なものがあったようです。
 無理矢理あんな寒冷地で稲をつくっています。ご存じのように、東北には何度も何度も飢饉が訪れましたが、何が原因だったかということを考えてみますと、これは稲づくりが原因だったと言われています。
 東北人は、もともと縄文的な文化をつくっていましたから、稲は基本的な作物ではありませんでした。ここに幕藩体制が形成されてから、稲づくりが強力に推し薦められるようになります。そして、どんな寒冷地であっても、たくさんのお米で石高をあげなくてはいけないという要求がありましたから、無理なところでお米をつくらせたわけです。そのために、何度も何度も飢饉が訪れています。お米が飢饉をつくってしまったというのが、北の日本の非常な悲劇の原因となっていったわけです。
 なぜこんなにお米に執着したかと言いますと、お米が税金だったからです。お米はお金でした。私たちはいま、お金で狂奔しています。株を操作して、お金をいかに操作するかということに非常な関心を注いでいますが、江戸時代、あるいは近代までは何をやっていたかというと、お米なのです。
 お米は貨幣でした。お米というのは非常に不思議な作物だったと思います。狭いところからたくさんの収量がありますし、お米はとても貨幣によく似ているところがあるのです。その証拠というのは、お米はもともと最初に入ってきたときは、大変に神聖な食べものだとされていました。
 ですから、お餅をつくることがおこなわれています。西日本へ行くと、餅米をつくって、お餅をたくさんつくります。そして、このお餅が不思議なもので、神さまに捧げるものですが、なぜこれを神さまに捧げることができたかというと、ついて、自由自在に形を変えられるからです。
 私たちの世界のなかで、自由自在に形を変えていくものはなんですかと言われてみれば、よく考えてみると、これは貨幣だということがおわかりだと思います。貨幣というのは、なんにでも姿を変えていくことができるものです。
 貨幣というのは、それ自体としてはなんの形も持っていません。何か抽象的なものですけれども、この抽象的なものが、どんどん形を変えていくことができるのです。私たちはお金を使ってものを買うことができます。ですから、お金に執着します。
 昔の日本人は何に執着したかというと、お米に執着しました。それはお米が、現在の我々の貨幣と同じはたらきをしているからです。お米はお餅に姿を変えることができるほどに、貨幣とよく似ています。いろいろなものに姿形を変えていくことができる。しかも、お米自体が大変な価値物でしたから、お米は日本人にとっても、大変に重要な貨幣と同じはたらきをしました。
 ですから、先ほどもお話ししましたように、東北の悲劇などというのは、お米を無理矢理つくったことから発生しました。それは、東北の津軽藩とか南部藩のお殿さまたちは、自分たちが辺境にいることを非常に恥じていました。ですから、石高をたくさん得るということに、大変に執着心を持っていました。ですから、お百姓さんたちは、あの寒冷地で米をつくらなければならなかったわけです。
 それも、現代の日本人が陥っているお金に対する執着や、あるいは、盲動とよく似ているところがあると思います。ですから、私たちがお米の問題を考えるときに、私たちは瑞穂の国に生まれているということを考えたとき、何かごく自然なことのように思いますけれども、日本人にとってのお米というのは、近点に至るまで、これは主要な食べものではなかったということを考えておいていただきたいと思います。