「東京の農業」を考える(7) | 雨に濡れても‥中沢新一

「東京の農業」を考える(7)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 日本の農業と畑作稲作


 農業というのはとても不思議な行為です。一般に日本の農業というと、これは稲作が中心だとイメージされることが多いですね。とりわけ、日本の農業を紹介する写真には、棚田の写真が必ず使われて、見事な水力、水利システムで、狭い土地を集約的に水田に切り替える。そして、この集約的な水田から、たくさんの稲を栽培して、米を収穫する。これが日本の農業の基本的なかたちだと言われています。
 しかし、よく考えてみますと、これは関東平野にはあまり当てはまらない農業の形態だということは、みなさんよくお気付きだと思います。関東のこの地帯というのは、地質学的に言うと、洪積層という地層によって成り立っています。つまり、昔から高い台地上の地形をしていました。
 ですから、ここには1万数千年前の古くから、縄文人が住んでいました。この武蔵野の台地、たとえば、多摩センターとか八王子から井の頭公園、あるいは、ここらへんもそうですね。このあたりは、もう海でした。ちょうど海との境目あたりですが、この台地上では縄文人が生活をしていました。
 普通、縄文人は狩猟採集民だと言われていますが、そうではないのです。農業をやっています。この農業というのは、畑作農業と焼き畑の農業をおこなっていました。
 この関東の台地というのは、焼き畑や畑作の農地に非常に適したところでしたから、ここにはある意味で言うと、古くから畑の畑作の農地が開かれていました。
 そして、徳川家康が江戸に都市を開くという事態が発生したとき、この近郊の農村部は、大きく活気づいていくことになります。一つは、玉川上水や神田上水を使って水路が切り拓かれて、これはもちろん江戸の住民に飲料水を供給するための水道だったのですが、しかし、これに駆り出されたのは、近郊の農民でした。
 この農民たちは、途中で分流をつくって、所沢の奥のほうですね。玉川のほうから、源流地から引っ張られてくる水を、自分たちの畑に通すということが可能になってきました。
 そして、そこで何が栽培されたかというと、都市に生活する人々のための蔬菜(そさい)、野菜栽培が中心になってきました。ネギであるとか、さまざまな蔬菜がつくられました。ですから、都市部の人間と農村部の人間というのは、江戸の場合は大変に交流が濃密にできていました。
 普通、ヨーロッパの都市というのは、都市部と周りの農村部のあいだに城壁をつくるのですが、江戸のまちというのは、これをつくっていません。日本の都市は、だいたい城壁をつくらないのです。
 ですから、毎朝、江戸のまちでは早朝になりますと、大八車が甲州街道をガタガタと下高井戸村のほうへ向かって繰り出していきます。これは何を持っていくかというと、大八車に積んであるのは、都市の住民の排泄物です。この肥桶にいっぱい詰めた排泄物を、早朝、都市の外へ運び出します。そうすると、それと入れ替わりのように、農村部のほうからは、ゴトゴトと野菜を積んだ大八車が、都市のなかに入ってくるようになる。
 ですから、そういう意味で言いますと、東京の農業地として、ある都市の蔬菜栽培と、都市のあり方というのは、見事にうまく結合できていました。人間が排泄するものは、必ず農業地に還元されましたし、農業地でできたものは、複雑な流通経路をとらなくても、都市のなかに簡単に運んで来られるような、そういうかたちで農業が進んでいました。
 むしろ、稲づくりは下町のほうでおこなわれていたわけです。足立区・北区の地帯は、水田地帯が広がっていましたが、武蔵野の農業というのは、畑がつくられていた。そして、この畑の農業というのは、水田がつくられてから、日本の農業がだんだん変わっていった、その変わる以前の日本人の農業のかたちを幾分残しています。
 ですから、この地帯では、イモが非常に重要なはたらきを持っています。イモというのは、いろいろなお祭りに登場してきますけれども、イモやネギが大きな意味を持っていたわけです。