「東京の農業」を考える(13) | 雨に濡れても‥中沢新一

「東京の農業」を考える(13)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 里山という秩序


 さて、この農民がつくりあげた一種の第二の自然、里山と呼ばれているものがあります。これは手つかずの自然ではありませんし、平地部につくられる都市とも違う秩序になってきます。これはいま、とても重要な概念、考え方になろうとしています。
 いままでは、自然保護というのは、自然を手つかずのまま残さなければいけないという考え方が、いろいろなところで声高に叫ばれてきましたが、この考え方がはたして正しいのだろうかということが、再検討に付されようとしています。
 たとえば、アマゾンの森林があります。あれは、いままで人間が手つかずのまま放置していたジャングルで、それを守ることが重要なのだ。これを開発することの悪が声高に言われていましたけれども、最近の研究によると、あのアマゾンのジャングルでさえ、実は、そこに住んでいたインディアンたちが下草を刈り、そして道をつくり、そこに生育する植物をコントロールしていたという意味で、アマゾンのジャングルでさえ、一種の里山ではなかったかという考え方を持つ人たちも出はじめているぐらいです。ですから、この里山という概念は非常に重要です。
 さて、この里山ではどういうことが起こっているかと言うと、そこには生物が、かつてないほどの多様性を持って比較的狭い地帯に集まって、ここに新しい環境を作っていく。そのとき人間がどういう反応をしたか。都市の生活の原理から言いますと、これはさまざまな動物が自分の生活圏の近くまで寄ってきますが、この動物たちを追い払うのでしょうね。
 そしてこの動物たちが、自分たちの生存のためにいろいろな要求をします。稲刈りをしても、全部の稲穂を集めないでくださいと鳥たちは要求しているでしょう。この要求を、農民たちは受け入れるということをしてきています。
 これは昔の農民の考え方について記録した、民俗学の記録を見るとよくわかります。稲刈りのあとに必ず動物たちの分を残して、日本の農民はおこなってきたようです。これは動物の要求をある程度受け入れることをおこなっているわけです。
 ところが、都市生活のなかでは、動物の要求を受け入れることが非常に難しくなっています。どうしていいかわからないのです。私たちはカラスの要求を受け入れるのがなかなか難しくなっています。カラスは、ゴミ袋の蓋を閉めるなと要求しています。野良猫たちも、なかを食べやすいように蓋をするなと要求しているでしょうけれども、この要求を、都市生活者はなかなか受け入れることはできません。
 なぜかと言うと、カラスの食べ方は、なかなか粗っぽい食べ方をするからです。これが里山だと、カラスが食い散らかした粗っぽい食べかすを、別の動物が食べていましたから、これは全体として見ると、カラスの行動の粗っぽさというのは、それほど重大な問題を引き起こさないのですが、都市では重大な問題をつくり出してきますから、カラスの要求に応えることは難しくなってきています。
 ほかの動物たちの要求に応えることも難しいし、植物や自然の要求に応えることも難しくなっています。せいぜい要求に応えることができるのは、自分の部屋のペットぐらいなものでしょう。おしっこがしたいと言ったら、おしっこへ連れて行ってやったり、ご飯が食べたいと言ったら、ご飯をあげたりする。これぐらいの要求には応えることができます。ところが、里山では、動物側からの要求に、ある程度の応答が常におこなわれていたわけです。
 植物や動物たちが自分の生存を守るために、それぞれの要求をおこないます。人間も要求をおこないます。そして、お互いの要求を出しあったところで、ネゴシエーションがおこなわれて、お互いの要求をある程度認めたところに、一種の緩衝地帯と言いますか、第三のクッション地帯がつくられます。
 里山の秩序のなかで一番重要なのは、この中間地点。人間のものであると同時に、動物のものであり、植物の生態に合致していると同時に、動物の生態に合致している。ですから、言い方を変えてみますと、人間や、動物や、植物の要求が入れ子になって、お互いが自己主張をしながら、そして、そこでネゴシエーションをして、まあここだけは受け入れるけれども、ほかのところは諦めなさいというかたちで交渉がおこなわれています。
 この第三の中間地点の交渉地帯。中間ゾーンですね。一種の灰色ゾーンみたいなものです。この灰色ゾーンというのが、里山をつくりあげている、非常に基本的な原理でした。
 農業生活者は自分の自宅があります。この自宅は都市と同じですから、人間の要求で基本的にはつくろうとしますが、なかなかそうもいきません。ネズミの要求があります。小動物たちがここにはたくさんやってきますが、この動物たちともある程度折り合いをつけて生きていたと思います。
 しかし、一歩、畑のほうへ出ていくと、そこは人間の思惑や要求だけでは、いかんともし難いような自然の世界が広がっています。そして農民は、この自然の側の力というものをある程度受け入れることによって、里山的な秩序をつくっていたのだと思います。
 農業が持っているもっとも偉大なところは、この部分にあると思います。つまり、自分の回りに集まっていて、同じこの世界をつくっている生物種、動物や植物が持っている要求を、ある程度受け入れつつ、お互いが共生できる空間をつくるということです。そして、この動物たちが現れてきたとき、植物が自分の目の前にあるとき、その相手のかたちを壊してしまわないということです。
 都市の生活の場合は、先ほども言いましたように、技術という原理が中心になっていますから、まず抽象的な形に壊してしまうのです。ですから、都市の生活というのは、非常にわがままだとも言えます。人間中心主義、人間勝手につくられているとも言えます。
 生物が自分の要求をするためには、自分の体を持っていなくてはいけません。自分の体を持っていて自己主張をする。それを受け入れようとするから、お互いのあいだに交渉をしたり、ネゴシエーションをしたりしなくてはいけませんが、都市の空間というのは、そういうものが入ってこないようになっています。
 ですから、この都市空間のなかにあるものは、原理から言うと、自由にコントロールできる素材でつくられるということなのです。コンクリートがそうです。このコンクリート素材というのは、木材以上に自由に形を変えることができます。鉄の素材もそうです。それによって都市空間をつくることができますが、これは非農業の原理でつくられているからだということになります。
 この都市のなかでは、自然の生物とのネゴシエーション、お互いのあいだの交渉によって秩序をつくっていくことが、中心的な原理にはなっていないということです。
 ところが、農業という生業のなかでは、お互いのあいだで違うもの、要求を持ったもの同士が出会ったときに、お互いの意見を聞き合いながら、そして、それでもなおかつ人間の役に立つように、自然をある程度つくり変えていくことがおこなわれていた。これが日本の農業的な自然秩序をつくっていた、あの里山というものの原理なのだと思います。