雨に濡れても‥中沢新一
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遺伝子組換え作物の<MANDALA>

遺伝子組換え作物の<MANDALA>は、平成17年3月19日に東京国際フォーラムで東京都が開催したフォーラムです。このフォーラムは、西東京市にある東京大学付属農場で遺伝子組換え作物の実験栽培が計画されたことに端を発し、単なる遺伝子組換え作物の安全性の是非だけでなく、現在の農業問題の象徴として広く都民に考えてもらいたいという趣旨のもとに企画されたものです。


「東京の農業」を考える(18)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 農業の世界観と新たな時代の可能性


 しかし、長いあいだ日本は、自分たちがつくりあげてきた別の世界観を破壊されることなく、うまく立ち回ってきました。日本的なシステムと呼ばれることもあるし、日本人の生き方のある部分を、うまく保ってきました。
 ですから、表面上では、アメリカナイズされた経済システムや技術の体系を見事に自分のなかに取り込みながらも、こっそりと、それによって破壊されない部分を保ち続けてきました。それは、ある意味でいうと、人間がお金を持っても、決して自由になってはいけない、お金が人間を自由にするはずはない。ましてや、一方的な自由を自然のなかに、あるいは、ほかの人間に対して行使してはいけない、こういう世界観が生きていたのでしょう。
 ですから、日本的な会社とか、日本的な資本主義というものが、そこでは生き続けることになりましたが、そのベースをつくっているのは、農民がつくりあげた里山的な秩序だったと思います。
 それがいま、大変な危機に瀕しています。私たちは、フジテレビ問題というのを高嶺の花で見ていますけれども、ある意味でいうと滑稽ではありますが、とても恐ろしいことが進行しています。
 あれは手の施しようがありませんけれども、しかし、そこでは非常に恐るべきことが進行しています。つまり、旧弊な日本のシステムを、お金の力で破壊できるということを実証します。実際に、銀行などを通じてこれは破壊されてきたわけですが、報道産業のようなかなり保守的なもののなかでも、お金の力によってこれが破壊されるということが立証されたとき、この流れが大変食い止められないものになってきます。
 そこで最後に残ってくるのが、農業的原理というものになってくるかもしれません。そして、農業の原理のなかには、現代の世界を突き動かしている狂気に満ちた原理とは違うものが生きています。この原理を絶やしてはいけないと思います。そのなかから新しく、これが私たちが生きてきた原理なのだということを取り出して、それがいま、科学技術や資本主義の問題として、激烈なかたちで現れている世界に、自分の考えをぶつけて問うてみる必要があると思います。
 その意味で、今回の遺伝子操作の問題と農業の問題というのは、非常に重要な問いかけになってくると思います。一長一短で解決、回答の出るものではありませんが、しかし、いま、科学技術がこれに生命を操作というかたちで扱おうとしているものと、農業が抱えてきた世界観のなかに、何か根本的に相容れないものがあることは確かです。
 しかし、この問題をはっきり認識して、そして農業らしく、新しい時代の要求のネゴシエーションに応えていくことは可能でしょう。それによって、農業というものが新しいかたちに変わっていくことも、一つの可能性としてあると思います。
 私は、このあとでおこなわれる討論を大変興味深く聞こうと思っていますが、私がここで最後に申しあげたかったことは、農業はいま大変危機に瀕していますが、それは非常に貴重なものをはらんでいる。そして、この貴重なものは、決して、過去のものとか、伝統的なもの、因習的なものというものではなくて、いまや人類全体がなだれ込もうとしている、一種のグローバリズムというものに、本当に「待った」をかけていくための、根本的な原理に成り得るのだということを言いたいと思います。
 いま、そんなことを主張しているのはイスラムの人たちだけですけれども、しかし、よく考えてみますと、農業のなかにある世界観というのは、大変深い。そして、思いやりのある、ある意味でいうと、生物に対して愛情のある生き方や原理が含まれていたはずです。これをもう一回私たちが取り出す努力をする必要があるのではないかという気持ちを込めて、お話をさせていただきました。
 1時間半も、ご拝聴どうもありがとうございました。

「東京の農業」を考える(17)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ ビオスとゾーエー


 生命というのは、二つのレベルを持っています。昔の古代ギリシャ人は、はっきりこれを二つに分けているのです。私たちは二つのレベルがあると言っています。
 一つは、ビオスと言っています。これはバイオロジーの原型になったビオスです。ビオスというのは私たちです。個体性を持っていて、この個体性を持った生物体は、人間だけではなくて、イヌもネズミも、どんな生きものも、自分の生きる権利を持っていて、悲しいと思えば悲しい、苦しいと思えば苦しい。痛めつけられれば泣きわめく。痛みを感ずる。つまり、苦痛を感じることができる存在が、ビオスとしてある。
 しかし、ビオスというものの奥に、個体性を越えた、もっと抽象的な生命、これをゾーエーと呼んでいます。ゾーエーというのは恐ろしい言葉ですね。抽象的な生命と呼んでいる。この二つが結合して、私たちの存在を成り立たせていると考えていました。
 ですから、私たちはビオスとゾーエーの結合なのです。私たちの身体のなかには、個体性とは関係ないものがはたらいています。たとえば、いま私の腸のなかでは、大腸菌が活動しています。そして、その大腸菌を回りで取り囲んでいる腸壁が活動していますが、これはゾーエーに近い活動です。意識は非常に弱いです。もっと細胞のレベルへいくと、さらに個体意識はなくなっていきます。
 そうして、生命原理を抽象的なレベルにまで抽象化していくと、そこにはもう、悲しみを感じたり、痛みを感じたりする生命体のビオスとしての側面は消えていきます。
 しかし、私たちは一個の個体としてこの世界に生きていますから、泣いたり、悲しんだり、苦しんだりします。それは、個体性がおこなわれているわけです。生命というのは、ビオスとゾーエーが結合しています。
 ところが、科学というのは、このうちのゾーエーだけを取り出すのです。つまり、抽象的な生命を取り出して、これを研究します。技術はこれを操作します。
 しかし、私たちの生きている人間の世界は、苦しみを感じる個体でできています。つまり、ビオスで生きています。科学技術は、ゾーエーとしての生命を扱うことを中心としておこなってきました。
 ところが、農業は、科学技術と強い結びつきを持った産業でありながら、個体性を持った生物のレベルを最大限尊重することをおこない続けてきた、変わった産業だったのです。ですから、ほかの生物とのネゴシエーションをして、相手の権利主張を聞きながら、自分の自由を制限することによって、環境をつくるということをおこなってきたわけです。
 これが、実は、農業を人間がはじめて以来、この地球上につくってきた、非常に、ある意味でいうと偉大な、貴重な秩序でした。日本人の場合は、これを里山の秩序としてつくりあげてきたわけですが、この里山は、千数百年の歴史を持ち、この農業というものが潜在的、根本的に持っている原理を、ものの見事に表現して見せています。
 お百姓さんたちは、あの環境のなかで自由ではありません。自由を制限されています。自由に行動することなどできないのです。自由に行動したかったら、都市へ行かなければいけなかったわけです。都市は自由が可能です。なぜならば、この都市のなかでは、人間的な自由を拘束するものは、元来は自然の側からは襲ってこないような環境をつくりあげようとしたからです。ですから、都会的なもの、都市的なものは、技術と科学と結合しやすい側面がありました。
 そして、この都市性と、技術と、科学と、それからもう一つ、先ほどから出てきた貨幣ですね。貨幣を使って資本主義という、これが結合したときに、ヨーロッパ文明が生まれました。これは19世紀に爆発的に地球上に広がっていって、日本も産業革命の流れのなかに入っていったわけです。

「東京の農業」を考える(16)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


4 21世紀の人間が生き延びていくために


 この問題を考えてみたときに、一つの軸をはっきりさせておきたいと思います。農業が伝統的につくりあげてきた世界観。これは、非農業の世界観とは根本的に違うと思っています。非農業というのは、科学や技術の原理と深く結びついていて、この原理というのは、生物体、人間や動物たちが、一個一個の生物体として自己を持っていて、この自己が生きようとする権利を持っていますが、この自己というレベルをすっ飛ばして、抽象的な生命の原理のなかに入ってくるのです。
 そして、この抽象的な生命の原理というのは、表面のようなところで悲しんだり、泣いたり、苦しんだりしている生物のことには、あまり関与しないのです。そういう生物の個体の苦しみや悲しみのことはすっ飛ばして、抽象的な生命のレベルへ入っていきます。そして、この抽象的なレベルで発見される生命の原理を扱おうとします。この抽象的な原理の部分は、人間の科学技術が比較的自由に操作できるのです。なぜならば、このレベルでは、痛いとも、悲しいとも、苦しいとも言わないからです。

「東京の農業」を考える(15)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


3 農業原理と科学技術の原理とのちがい


 先ほども言いましたように、農業は、まず動植物の形を破壊して、そのなかから抽象的なエネルギーや力を取り出すことをしない仕事です。生きた動物が、自分の考えや思いを持ったまま生育している。その生物をそのまま相手にしていきますから、相手の思いと言いますか、権利主張を、ある程度人間の側が考慮に入れないといけない。ですから、自分を制限していかなければいけないわけです。
 農業的生き方というのは何かというと、自分をつくりあげている世界が、それぞれが自己主張をしている、権利主張をしているものを受け入れて、自分が持っている自由を制限することを受け入れた生き方ということになります。
 ですから、農業とは何か。それは、人間が自分の選択によって、自分の自由を制限した。私は自由を一部分失ってもよい。それはなぜかというと、ほかの生物の権利を認めるためであるということが、里山という秩序の形成の原理の奥底に潜んでいます。
 農業というのは、基本的に、この世界に生きとし生ける生物体の生命を尊重して、この生命が自己主張しようとしている権利をある程度認めながら、そこに人間にとって有益であるような秩序をつくりあげる。その最高傑作が、里山の秩序として形成されていったものです。
 ところが、科学と技術が基本的な原理としているものは、この農業的な原理とは違うということです。まず、近代社会で科学が発達しましたが、近代社会の原理というのは、自由ということでした。人間は、一個人としての尊厳を持って、全面的な自由があるというのが、ヨーロッパ近代をつくりあげる根本的な原理でした。人間はどこまでも自由なのだということです。
 そして、この自由の考え方と、自然科学の基本的な原理が結びつきました。先ほど言った自然科学の原理というのは、自然の奥底にある抽象的な原理を取り出してみる作業です。生物の体というのは、どのようにしてつくられてくるかというと、これは基本的な遺伝子に還元することができます。この遺伝子は、人間によって自由に操作可能なものとしてあります。
 なぜ、操作可能なものかというと、遺伝子は生物体のように自己を持って主張しないからです。動物でしたら、これは自己主張します。
 私は東北の「またぎ」さんのところに行って、話を聞くことがよくあります。「またぎ」さんは動物を殺さなくてはいけないのです。いやなもんですよと言うわけです。なかでもいやなのは、サルなんですと。サルに鉄砲を向けてしまったとき、こちらの猟師さんたちも困るのだそうです。どうしようかと思っていると、本当に困るのは、サルが手を合わせて合掌するので、そうすると猟師さんは困ってしまって、鉄砲を下ろすしかないというのです。
 これは、その生物体に、自分が生きたいという意欲があります。そして、願いがありますから、自分が生きたいという願いを奪おうとしている者に対して、殺さないでくれという権利があるのです。
 これはなぜかというと、この地上に生命体を持って生まれたものには、どんな生命体にも生きる権利があるからです。そして、人間はこれを奪う自由というのは、本来はないということです。もし人間が他の生きものの命を奪うことができるとしたら、それは必要に駆られてやらざるを得ないからであって、決して自由ではありません。
 ところが、自然科学が対象にしているものは、生命体の個体性というものを越えた、もっと深いレベルです。生命の深いレベルを扱っている。この深い生物学的レベルに入ってきますと、ここは科学的な技術によって、自由な操作が可能になってきますから、その自由な操作の一つの極限的な技術として、いま遺伝子操作の技術が開発されているわけです。
 遺伝子は操作しても文句を言いません。ところが、動物たちは文句を言うし、苦しむし、泣くし、わめくのです。恐ろしいと思って泣くわけです。
 農業が科学技術ともっとも違う部分はどこかと言うと、ここの部分にあると思います。もちろん、農業も科学技術と無縁ではありません。科学技術と一体になって生産活動をおこなってきました。それは、宮沢賢治のような人たちがはっきり言っていることです。農業は科学と結びつけということを言っています。科学技術を身に付けて、農民は自然ともっと自由に渡り歩かなければいけない。
 と同時に、宮沢賢治はもう一つ重要なことを言っています。農民たちは、自分たちが相手にしているのは生物の世界で、生物の世界を生きているものは、みんなそれぞれに生きる意志を持って、自己というのを持っている世界だから、その人たちに想像力を持たなければいけないと言っているのです。
 ですから、科学と結びついた、しかも、ほかの生物体の生存の権利に思いやりを持つ。宮沢賢治はこれを慈悲と言ったでしょうか。思いやりを持つ、あるいは、それを考慮に入れる。
 かつて農民たちがやってきたように、人間以外の生物種の権利や要求を自分のなかに受け入れる。なぜなら、その動物も植物も自己を持っているからです。生きる権利があるからです。この二つを結合しないと、理想的な農民にはならないぞと、宮沢賢治は言っていました。
 いま、農業が直面している大きな問題というのは、科学技術の問題と、ありとあらゆる深いところで関係してしまっています。
 農業技術というのは、化学(ケミストリー)や、一つは農薬、あるいは、ジベレリンなどを使って果物の種をなくしたり、大きくしたりする操作などというのは、かなり前から発達してきましたが、いまここで遺伝子操作問題というのが登場してきました。
 そして、この問題をどう考えたらよいだろうかという、思考の軸を見いだす必要があると思います。おそらく、今日の会を主催した方たちの考え方というか、何がきっかけになったかというと、それは、東京大学の農学部が科学実験として遺伝子操作で作物をつくろうとしたら、実験農場の周辺の住民やお百姓さんたちに反対されたということです。
 反対する理由は大いにあると思います。しかし、その場合、農民には何を原理として遺伝子操作を再検討しろと要求する権利があるかということを、まず探ってみる必要があると思います。そうでないと、新橋、横浜間を最初に機関車が通ったときに、あの蒸気機関車が人を殺すと言って逃げ回った人たちと、同じようなことになってしまう可能性も、なきにしもあらずだと。
 けれども、科学技術が、いま生命を操作しようとして、生命の一番最深部に手を伸ばそうとしているこの技術と、農業というものがひとつの世界観として築き上げてきた考え方というものは、やはり、どこか根本的なところで相容れないものがある。
 しかし、現実の農業はどうかというと、いままで農業をつくりあげてきた、この根本的な原理などというものを、すでに農民の多くの人たちは手放して、そして機械化され、商業化された農業というものに踏み込んでしまった。
 このように、技術や商業主義に完全に踏み込まれている農民に、はたして遺伝子操作が要求しているような、科学技術の発達にストップをかける権利があるのだろうかという大きな問題が、ここでせめぎ合っているのだろうと思います。
 これは、農業が抱えている大きな矛盾であると同時に、しかし、実は、21世紀の人間が生き延びていくことを考えたときに、農業のなかに残っている世界観が持っている重要性という、この二つの問題点が残っていくと思います。

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