「東京の農業」を考える(17) | 雨に濡れても‥中沢新一

「東京の農業」を考える(17)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ ビオスとゾーエー


 生命というのは、二つのレベルを持っています。昔の古代ギリシャ人は、はっきりこれを二つに分けているのです。私たちは二つのレベルがあると言っています。
 一つは、ビオスと言っています。これはバイオロジーの原型になったビオスです。ビオスというのは私たちです。個体性を持っていて、この個体性を持った生物体は、人間だけではなくて、イヌもネズミも、どんな生きものも、自分の生きる権利を持っていて、悲しいと思えば悲しい、苦しいと思えば苦しい。痛めつけられれば泣きわめく。痛みを感ずる。つまり、苦痛を感じることができる存在が、ビオスとしてある。
 しかし、ビオスというものの奥に、個体性を越えた、もっと抽象的な生命、これをゾーエーと呼んでいます。ゾーエーというのは恐ろしい言葉ですね。抽象的な生命と呼んでいる。この二つが結合して、私たちの存在を成り立たせていると考えていました。
 ですから、私たちはビオスとゾーエーの結合なのです。私たちの身体のなかには、個体性とは関係ないものがはたらいています。たとえば、いま私の腸のなかでは、大腸菌が活動しています。そして、その大腸菌を回りで取り囲んでいる腸壁が活動していますが、これはゾーエーに近い活動です。意識は非常に弱いです。もっと細胞のレベルへいくと、さらに個体意識はなくなっていきます。
 そうして、生命原理を抽象的なレベルにまで抽象化していくと、そこにはもう、悲しみを感じたり、痛みを感じたりする生命体のビオスとしての側面は消えていきます。
 しかし、私たちは一個の個体としてこの世界に生きていますから、泣いたり、悲しんだり、苦しんだりします。それは、個体性がおこなわれているわけです。生命というのは、ビオスとゾーエーが結合しています。
 ところが、科学というのは、このうちのゾーエーだけを取り出すのです。つまり、抽象的な生命を取り出して、これを研究します。技術はこれを操作します。
 しかし、私たちの生きている人間の世界は、苦しみを感じる個体でできています。つまり、ビオスで生きています。科学技術は、ゾーエーとしての生命を扱うことを中心としておこなってきました。
 ところが、農業は、科学技術と強い結びつきを持った産業でありながら、個体性を持った生物のレベルを最大限尊重することをおこない続けてきた、変わった産業だったのです。ですから、ほかの生物とのネゴシエーションをして、相手の権利主張を聞きながら、自分の自由を制限することによって、環境をつくるということをおこなってきたわけです。
 これが、実は、農業を人間がはじめて以来、この地球上につくってきた、非常に、ある意味でいうと偉大な、貴重な秩序でした。日本人の場合は、これを里山の秩序としてつくりあげてきたわけですが、この里山は、千数百年の歴史を持ち、この農業というものが潜在的、根本的に持っている原理を、ものの見事に表現して見せています。
 お百姓さんたちは、あの環境のなかで自由ではありません。自由を制限されています。自由に行動することなどできないのです。自由に行動したかったら、都市へ行かなければいけなかったわけです。都市は自由が可能です。なぜならば、この都市のなかでは、人間的な自由を拘束するものは、元来は自然の側からは襲ってこないような環境をつくりあげようとしたからです。ですから、都会的なもの、都市的なものは、技術と科学と結合しやすい側面がありました。
 そして、この都市性と、技術と、科学と、それからもう一つ、先ほどから出てきた貨幣ですね。貨幣を使って資本主義という、これが結合したときに、ヨーロッパ文明が生まれました。これは19世紀に爆発的に地球上に広がっていって、日本も産業革命の流れのなかに入っていったわけです。