「東京の農業」を考える(15) | 雨に濡れても‥中沢新一

「東京の農業」を考える(15)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


3 農業原理と科学技術の原理とのちがい


 先ほども言いましたように、農業は、まず動植物の形を破壊して、そのなかから抽象的なエネルギーや力を取り出すことをしない仕事です。生きた動物が、自分の考えや思いを持ったまま生育している。その生物をそのまま相手にしていきますから、相手の思いと言いますか、権利主張を、ある程度人間の側が考慮に入れないといけない。ですから、自分を制限していかなければいけないわけです。
 農業的生き方というのは何かというと、自分をつくりあげている世界が、それぞれが自己主張をしている、権利主張をしているものを受け入れて、自分が持っている自由を制限することを受け入れた生き方ということになります。
 ですから、農業とは何か。それは、人間が自分の選択によって、自分の自由を制限した。私は自由を一部分失ってもよい。それはなぜかというと、ほかの生物の権利を認めるためであるということが、里山という秩序の形成の原理の奥底に潜んでいます。
 農業というのは、基本的に、この世界に生きとし生ける生物体の生命を尊重して、この生命が自己主張しようとしている権利をある程度認めながら、そこに人間にとって有益であるような秩序をつくりあげる。その最高傑作が、里山の秩序として形成されていったものです。
 ところが、科学と技術が基本的な原理としているものは、この農業的な原理とは違うということです。まず、近代社会で科学が発達しましたが、近代社会の原理というのは、自由ということでした。人間は、一個人としての尊厳を持って、全面的な自由があるというのが、ヨーロッパ近代をつくりあげる根本的な原理でした。人間はどこまでも自由なのだということです。
 そして、この自由の考え方と、自然科学の基本的な原理が結びつきました。先ほど言った自然科学の原理というのは、自然の奥底にある抽象的な原理を取り出してみる作業です。生物の体というのは、どのようにしてつくられてくるかというと、これは基本的な遺伝子に還元することができます。この遺伝子は、人間によって自由に操作可能なものとしてあります。
 なぜ、操作可能なものかというと、遺伝子は生物体のように自己を持って主張しないからです。動物でしたら、これは自己主張します。
 私は東北の「またぎ」さんのところに行って、話を聞くことがよくあります。「またぎ」さんは動物を殺さなくてはいけないのです。いやなもんですよと言うわけです。なかでもいやなのは、サルなんですと。サルに鉄砲を向けてしまったとき、こちらの猟師さんたちも困るのだそうです。どうしようかと思っていると、本当に困るのは、サルが手を合わせて合掌するので、そうすると猟師さんは困ってしまって、鉄砲を下ろすしかないというのです。
 これは、その生物体に、自分が生きたいという意欲があります。そして、願いがありますから、自分が生きたいという願いを奪おうとしている者に対して、殺さないでくれという権利があるのです。
 これはなぜかというと、この地上に生命体を持って生まれたものには、どんな生命体にも生きる権利があるからです。そして、人間はこれを奪う自由というのは、本来はないということです。もし人間が他の生きものの命を奪うことができるとしたら、それは必要に駆られてやらざるを得ないからであって、決して自由ではありません。
 ところが、自然科学が対象にしているものは、生命体の個体性というものを越えた、もっと深いレベルです。生命の深いレベルを扱っている。この深い生物学的レベルに入ってきますと、ここは科学的な技術によって、自由な操作が可能になってきますから、その自由な操作の一つの極限的な技術として、いま遺伝子操作の技術が開発されているわけです。
 遺伝子は操作しても文句を言いません。ところが、動物たちは文句を言うし、苦しむし、泣くし、わめくのです。恐ろしいと思って泣くわけです。
 農業が科学技術ともっとも違う部分はどこかと言うと、ここの部分にあると思います。もちろん、農業も科学技術と無縁ではありません。科学技術と一体になって生産活動をおこなってきました。それは、宮沢賢治のような人たちがはっきり言っていることです。農業は科学と結びつけということを言っています。科学技術を身に付けて、農民は自然ともっと自由に渡り歩かなければいけない。
 と同時に、宮沢賢治はもう一つ重要なことを言っています。農民たちは、自分たちが相手にしているのは生物の世界で、生物の世界を生きているものは、みんなそれぞれに生きる意志を持って、自己というのを持っている世界だから、その人たちに想像力を持たなければいけないと言っているのです。
 ですから、科学と結びついた、しかも、ほかの生物体の生存の権利に思いやりを持つ。宮沢賢治はこれを慈悲と言ったでしょうか。思いやりを持つ、あるいは、それを考慮に入れる。
 かつて農民たちがやってきたように、人間以外の生物種の権利や要求を自分のなかに受け入れる。なぜなら、その動物も植物も自己を持っているからです。生きる権利があるからです。この二つを結合しないと、理想的な農民にはならないぞと、宮沢賢治は言っていました。
 いま、農業が直面している大きな問題というのは、科学技術の問題と、ありとあらゆる深いところで関係してしまっています。
 農業技術というのは、化学(ケミストリー)や、一つは農薬、あるいは、ジベレリンなどを使って果物の種をなくしたり、大きくしたりする操作などというのは、かなり前から発達してきましたが、いまここで遺伝子操作問題というのが登場してきました。
 そして、この問題をどう考えたらよいだろうかという、思考の軸を見いだす必要があると思います。おそらく、今日の会を主催した方たちの考え方というか、何がきっかけになったかというと、それは、東京大学の農学部が科学実験として遺伝子操作で作物をつくろうとしたら、実験農場の周辺の住民やお百姓さんたちに反対されたということです。
 反対する理由は大いにあると思います。しかし、その場合、農民には何を原理として遺伝子操作を再検討しろと要求する権利があるかということを、まず探ってみる必要があると思います。そうでないと、新橋、横浜間を最初に機関車が通ったときに、あの蒸気機関車が人を殺すと言って逃げ回った人たちと、同じようなことになってしまう可能性も、なきにしもあらずだと。
 けれども、科学技術が、いま生命を操作しようとして、生命の一番最深部に手を伸ばそうとしているこの技術と、農業というものがひとつの世界観として築き上げてきた考え方というものは、やはり、どこか根本的なところで相容れないものがある。
 しかし、現実の農業はどうかというと、いままで農業をつくりあげてきた、この根本的な原理などというものを、すでに農民の多くの人たちは手放して、そして機械化され、商業化された農業というものに踏み込んでしまった。
 このように、技術や商業主義に完全に踏み込まれている農民に、はたして遺伝子操作が要求しているような、科学技術の発達にストップをかける権利があるのだろうかという大きな問題が、ここでせめぎ合っているのだろうと思います。
 これは、農業が抱えている大きな矛盾であると同時に、しかし、実は、21世紀の人間が生き延びていくことを考えたときに、農業のなかに残っている世界観が持っている重要性という、この二つの問題点が残っていくと思います。