「東京の農業」を考える(2) | 雨に濡れても‥中沢新一

「東京の農業」を考える(2)

遺伝子組換え作物の<MANDALA>

    <縁>の座:「東京の農業」を考える

        座 長:中沢新一さん(中央大学教授)


■ 「踊る農業」との出会い


 どのようにして農業とかかわるようになったのかと言いますと、最初のきっかけは十数年前ですけれども、ある日私の前に、山形県の新庄村役場の名刺を持った、「モリ」さんという方が突然現れたのです。
 この方が何を言い出すのかと思いましたら、私は「踊る農業」をやっておりますと言うわけです。踊る農業というのは、大変に詩的・芸術的な言い方ですし、すばらしい言い方ですねと言いますと、農業というのは、もともとは神さまのおこなう行為に近いものであったわけですから、踊りや音楽という芸術などの領域に非常に近いものであった。宮沢賢治などの作品を見てみても、農業と芸術を結びつけるのは非常に重要なことで、農業と芸術は結びつくものなのだと。ところが、いまの農業というのは、どんどんと機械化の方向へ進んでしまって、生活の全体を巻き込んで人間を豊かにしていく生業と言いますか、行動になり得ていないのではないかと言うわけです。
 かつては、宗教の儀式とか、踊りとか、歌とか、芸術とか、そういうものを巻き込みながら、農民全体の生活のなかで農業という行為がおこなわれていたけれども、現代の世界のなかで、技術や工業化が振興していくなかでの農業というのは、この側面がどんどんと壊れされていって、農業労働自体が喜びではなくなっている。そのように自分は感じるのだと。
 この農業労働というものを、もともと持っていた豊かなかたちに戻したい、そういう望みを持った仲間たちが何人もいる。ですから、それを「踊る農業」という名前をつけて、みんなでこの問題をいっしょに探求しているのだけれども、ここへ来て話をしてくれないかということが、十数年前の最初のきっかけでした。
 新庄村へ出かけてみますと、新庄のあたりは山のなかで、かなり寒冷地農業に近い場所だったのです。じいちゃん、ばあちゃんが主体で、ただ、おもしろいのは、その村へ行きますと、じいちゃん、ばあちゃんだけではなくて、フィリピン人の嫁さんがたくさんいたということです。
 フィリピン人の嫁さんと、村に居ついた若者と、老人が農業をやっていたのですけれども、そこで最初の講演をやらされたのです。これは非常に珍妙な講演でした。
 「モリ」さんはなかなかしゃれた人ですから、大蔵村の公民館の入り口へ入ってみると、「ポストモダンと現代農業」という題目の看板がかかっているのです。おじいちゃん、おばあちゃんは、そんなことは全然わからないわけです。
 会場のなかで、私の本の回し読みなどをしているのですけれども、なかには、逆さにしたまま、「えらいもんだな」などと見ている人もいて、そこで農業の話をしなければいけなかったというのが最初でした。
 そして、そこで農業の話をするよりも、まず、こういう寒冷地農業の場所へ学生を連れてきて、そこで稲づくりを最初からやってみたらどうかということが、そのときに結論として出ました。では、村の人にも協力してもらって、ぜひここで学生たちを働かせてくださいというのが、最初のきっかけでした。これは「踊る農業」がどういうものになるのかという意味では、非常におもしろい試みだったと思います。
 なるべく農業という行為を、もともと日本の社会で持っていた、ただ、米という農産物や商品をつくるという行為だけではなくて、それをつくるという行為が、土や、周りの環境や、あるいは、ああいう山形県の山のなかですから、神さまがたくさんいますので、そういう神さまとどうやってかかわっていくかということで、ひとつの農業という行為を、大きく拡大してみましょうという試みだったわけです。
 ですから、昔のように、まず代掻きをする前に、神主の格好をした村の若者が田のなかで踊りをはじめたり、こういうことからはじめるという、ばかばかしいと言われればそうなのですけれども、この山形の人たちにとっては、かなり真剣な問題の一角に触れることを、ずっと続けてきたわけです。
 ここには、近くの余目(あまるめ)という村の青年団もたくさんやってきました。この人たちは、鴨を使った稲づくりを非常に盛んにやっている方たちです。
 米づくりということは、いま日本の社会のなかで抱えている一番の矛盾を全身で感じながら、しかし、自分たちがやっている農業というものに、人間がやる行為として、何か新しい可能性や意味があるのではないかということを真剣に考えている連中でした。なかには、東京で何年か暮らして、その挙げ句に、もう一回田舎に帰って農業を選んだという若者も多かったので、こういう問題について、かなり真剣に考えていました。
 農業というのは、いったい人間のやる行為のなかで、どういう意味を持っているのか。どういう広がりのなかであるべき行為なのか。しかし、それが現代の社会のなかで、矮小化されたり、ねじ曲げられたりしていて、農業の労働そのものが喜びではなくなってしまっている。それはなぜか。なぜかという理由が少しでもわかったら、そこから抜け出していく道をどこへ探したらいいか。こういうことを一所懸命考えている連中でした。
 この人たちとの付き合いは、いまもずっと続いているのですけれども、何しろ山形県の奥ですから、たくさんの学生が増えはじめると、連れてくるのが大変になりました。そこで、八王子の近郊で農業ができる場所はないかなと思って、ある日、学生を連れてドライブして車を走らせていたところが、恩方町の一角で、大変に美しい水田が広がっている。そこの持ち主の方に話をして、ここで働かせてもらえないかと言いました。
 最初はびっくりされていました。何か下心があるのではないかと思って、いろいろと質問もされましたけれども、しかし、べつに下心もなく、ただ、基本的には、そこの農業全体を手伝わせてもらう。その手伝わせてもらうなかで、学生たちが自分たちにとって、何か非常に重要なものを身に付けてくれたらよいということだと言いましたら、よく納得してくださいました。それ以来、八王子でずっと続けています。